シルクドソレイユアーティストの日常

「できて当たり前」はどこから来るか?

これは出来て当然だよね、って誰が基準を作ってるんだろうか。

過去にも紹介している通りラヌーバではHouse Tromp*1の力を借りて縄跳びのアクトをしている。


ラヌーバ「なわとびアクト変革計画」 第三弾 ~マネージャーとしてのソリスト~ – なわとび1本で何でもできるのだ

もちろんHouse Trompも縄跳びを跳ぶ。
でも彼らはあくまで別の専門を持つアーティストなわけで・・・。
身体が3回まわせても、縄跳びは2回まわせない人だって居る。

なんでこんなことができないんだ!?
こんな簡単なこと出来て当たり前でしょ!?

と叫びたくなることもしばしば。
ただ…この思考は時に危険な方向に進むことに最近になって気付いた。

出来て当たり前の基準はどこにあるのか?

そもそも出来て当たり前!ってのはどこから来ているのだろうか?
そう、全部自分の中の基準から来ている!!

このレベルの技なら、この程度の動きなら・・・
どれもこれも相手に押し付けている基準でしかない。

ただ場合によっては話を効率化して進めやすくする潤滑油的な役割を果たす。
たとえば職業上で求められる最低限の知識とか、趣味仲間同士の専門用語とか。

SCCC、SOOO、SSOO、SSOC、SSOTS

こう書けば縄跳びの専門家なら理解できるだろう。
これを分かりやすく説明するとこうなる。

Sが横に縄を振る動きで、Cが交差、Oが普通の開いた状態を表す。そして「、」までが1つのジャンプになるので、最初の記号は4重とびのサイド1回と交差姿勢3回転という意味になる。また最後のTSは背面で交差をする技の意味で、横に2回縄を振り、その後に一度前回し、そして最後に背面交差をしたまま回す4重とびという意味。

イチイチ説明していたら面倒くさい。文字に起こしたら200文字を超える。
複雑な説明をあえて省略文字や専門用語を使い、概念とかを端的に伝える。

コミュニティ内での意思疎通の効率化とも言える。

でもそれが、単なる身勝手な要求だと話が変わってくる。

自分ができることは誰でも出来る?!

光速のツッコミが見える。その通りだ。

自分ができることがだれでも出来るなら専門家など存在しない。
他の人にできないからこそ価値がある。
だがこれがもっと身近なことになるとどうだろうか?

PDFを見開きで出力して冊子にする、
エクセルでアンケート結果を集計する、
ホームページのデザインをする、

出来る人にとってはスグに出来る。でも世の中全ての人がそうとは限らない。パソコンに詳しくない人だっている。でも出来る人からすると、

何でこんなことが出来ないの!?
出来て当たり前でしょ!?

となりやすい。
この図式は縄跳びが得意でないHouse Trompに苛立っている自分と全く同じである。

自分の思いじゃなくその人を理解する

出来て当たり前!!
これは勝手に自分の経験と知識をもって相手に押し付けて苛立っているだけ。

けどその仕事が相手は不得手かも知れないし、教えればスンナリ行くかもしれない。
相手にワァーワァー言っている暇があれば、相手がどんな状態なのかを理解する方が解決も早い。

知らないだけならやり方を説明すればいい。
どうしても苦手なら別の仕事をお願いすればいい。

Singing

とかく、縄跳びの事になると自分の要求は高い。
だがそれは10年以上の歳月で培ったからこそ簡単にできること。
年月の浅いHouse Trompに求めるには無理難題だったことも多かっただろう。

ミスや不具合のたび、指摘ばかりしていた自分が恥ずかしい。

ショーである以上求めたいラインはあるが、要求ばかりではコミュニケーションにならない。
重箱の隅をつつくような要求を減らし、これからは彼らを理解することに力を注ぎたい。

*1:ショー中に自分のメインアクトじゃない場面においてバックで踊ったり動いたりしている人々で、集団演技を行うアーティストをこう呼ぶ