こんにちはー。 縄跳びパフォーマーの粕尾将一(@macchan8130)です。
舞台芸術と縄界、ひいてはパフォーマンス業界を、もっとつなぐ取り組みを進めたい。パフォーマンス=表現って風潮はあるけど、実際にしっかりと舞台表現をやったり学んだことのある人って少ないんだよね。コンテンポラリーダンスのエネルギッシュさ、マジで半端無いから。この二つの溝を埋めたい。
— 粕尾将一 (@macchan8130) 2015, 11月 5
ここ数年で「パフォーマンス」を「表現」として捉える風潮が広がっています。
きっとシルクドソレイユをはじめとした「現代サーカス」の影響なのでしょう。パフォーマーではなく「アーティスト」と名のる人も増えました。
しかし舞台芸術や身体表現について、本気で向き合った人ってごく少数だと思うのです。技を組み合わせれば芸術的表現だと勘違いしている人すらいるのでは。
この「身体表現」と「パフォーマンス」の間には、我々が思っている以上に「溝」があると思うんですよ。
身体表現?それとも演出?
たとえば縄跳びで演技を披露します。それも舞台の上で照明などの演出を加えて。
見た目にはそれっぽく見えると思います。でもこれが即ち「身体表現」になるかというと、話が別なんです。
これはあくまで「縄跳び運動」を演出しただけです。言うなれば「マーカーや赤線で目立つように仕向けられた文章」のようなもの。縄跳びは縄跳びのまま。この時点で、本当にパフォーマーが表現者になっているのでしょうか?
並べるだけで表現になる?
文章を書くようになってから「文章」と「パフォーマンス」とスゴイ似てる事に気付きました。
単語を知っていれば、誰でも文章を作れますよね。「今日はおにぎりを食べた」も立派な文章です。同じことがパフォーマンスにも言えるんですよ。
たとえば縄跳びの技が30個もできれば、十分演技を構成することが出来ます。それも立派な演技です。ただこれだけで表現と言ってしまうのは乱暴。
技の組み合わせを披露するのも演技。コレ自体が悪いことじゃありませんが、すなわち何かを訴えたり、表現しているとは限りません。
「表現する」をしたいだけ?
パフォーマンスで何を表現していますか?と聞くと、しばしば「自分自身」や「楽しさ」という言葉が返ってきます。たしかにこれも表現のひとつでしょう。自分というのは唯一無二のオリジナルですし。
でも「自分」や「楽しさ」だけだと表現の幅が狭すぎやしませんかね。
表現できるモノって無限に存在します。それなのに「自分」とやらばかりを表現している。ここには「表現」という言葉を使いたいだけの「ファッション的」「流行に」といった思惑が見え隠れします。
これは大野佐紀子さんの言う「アーティスト症候群」と通じますね。
自分流。自然体。別格。その共通点は、「ナンバーワンよりオンリーワン」である。オンリーワンの自分を評価し承認してほしいという欲求が、「アーティストになりたい」という欲求の根っこにある。(P242)
引用:アーティスト症候群—アートと職人、クリエイターと芸能人 (河出文庫)
技を組み合わせた演技を評価し、承認して欲しい。そのためには「表現者=アーティスト」として振る舞うのが良い。うがった見方かもしれませんが、この疑問は常に自分の中でモヤモヤしてます。
おわりに
photo by Stefano Montagner – The life around me
これ、実は自分自身の演技に感じてるコトなんですよね。
いまはシルクドソレイユに素晴らしい演出でお膳立てしてもらってステージに立っています。けどいくら見た目が綺麗になっても、はたして自身が表現者なのかは疑問です。縄跳びをしてる自分は、ステージに立つ前と何も変わっていないんじゃないかって。
身体表現とアクロバット・サーカスパフォーマンスは近づいています。でも、実はまだ大きな溝がある気がしてならない。
舞台芸術は表面的な美しさに目が行きがちです。でも実は内側の見えない部分にこそ「パフォーマー」が知らなかった新しい世界が広がってると思うんです。