こんにちはー。 縄跳びパフォーマーの粕尾将一(@macchan8130)です。
11月に入り、ついに次のアクトのアーティストがオーランドに来ました。縄跳びに替わる次のアクトは「B-Boy」。「ブレイクダンス」アクトです。
入れ替えが発表されてもどこか実感がわかなかったんですよね。でも実際に目の前にアーティストが立っていると現実を突き付けられます。
話題も全て新アクトのことで持ち切り。B-boyアクトに出演する3人も親しみやすい人柄で、あっという間にラ・ヌーバ内で打ち解けているようでした。
自分はといえばボーッと新しいアーティストを見るだけ。目線が合いそうになると、大人げなくクルッと進路を変える。頭では知ってるんです。こんな感じで接しちゃいけないって。あとはほら「自分のことに集中してー。」とか「ポジティブにとらえてー。」とか。
ネガティブが湧き出してくる
いま感じてる「感情」は間違いなくネガティブです。
この状態だからこそ良からぬ想いが浮かんでくる。B-boyアクトの入れ替えが上手く行かずに縄跳びが残らないかなぁ、とか平気で考えちゃうんです。そして次の瞬間には、こんな自分は小さい人間なんだ…っていっそう落ち込む。
この状況をみた「頭のいい人」や「合理的な人」であれば、きっと時間の無駄と叱られるでしょう。自分の中にいる合理的な部分はいつもそう叫んでますから。
ただ今は、あえてこの「ネガティブな状態」を味わうのも良いんじゃないかな?と思えるんですよ。
感情には速度がある
ネガティブな状態を味わうのってシンドいんですよね。内側がドンドン変化していって、起伏ができます。でもここで「知ってる正解」を自分に押し付けるのは違うと考えたんです。
たとえば自己啓発本とかだと「環境を変えるより自分を変えろ!」とか「きつい時こそ行動だ!」とか言ってくるんです。たしかにこれは本質的な考えかもしれないし、合理的な判断だと思うんです。
ただ、どれもこれも自力で掴んだ正解じゃないと意味が無いと思うのです。
ひょっとしたら時間を経てこうした「正解」と同じ答えを自分も出すかもしれない。でもそこまでの過程があってこその「答え」なんです。表面的な言葉やフレーズが同じでも、自力でこぎ着けた答えの方が生臭い。
この生臭さをすっ飛ばして、ネットや本に書いてある「正解」にショートカットしてしまう。このやり方は感情が変化する過程を無視してると思うのです。
自分事を他人事みたいに捉える
ただネガティブの気持ちに全てが支配されるのは困る。なので自分は、ちょっと離れた所から自身を見てる「もう一人」を作ってます。このもう一人は何も判断しないし、善し悪しも決めません。ただボーッと移り変わっていく「感情」と「自分」を眺めてるだけ。
この人(=自分)はこんな風に感じてるんだ、こんな感情が浮かんできてるんだ、みたいな。どこか他人事なんです。
自分事を他人事として捉える。矛盾してますけど、不思議とバランスが取れます。ネガティブに食い尽くされそうな時に「お、あの人ヤバイ方に向いてる…」と観察してるので、行き過ぎる直前でストッパーが掛かります。
生臭い正解を見つける大切さ
ネットやテレビをつけると、格言や名言が山のように溢れてきます。どれもジーンとくる言葉やフレーズです。
もしかしたら、これらは「正解」なのかもしれません。正解を知っていれば効率的に生きれるのかもしれない。ただどこか、文字や画面で見ただけの正解はサラッとしてます。結果として知識で持っている正解と同じ答えになるかもしれない。
感情の速度を無視せずに生臭い答えを探すのも「生きてる感じ」がして悪くないですよ。