こんにちはー。
縄跳びパフォーマーの粕尾将一(@macchan8130)です。
2016年で「なわとび」を続けて14年目になります。もう少しで人生の半分を縄跳びに費やしたことになります。
いまでも縄跳びは大好きです。でも細かく見ていくと、縄跳びの中でも「好き」の対象は時代によって変化していることに気付きました。題材は同じでもアプローチの仕方が違う、という感じです。
好きなことは続けやすいと思われがちですが、実は違うと思うんです。人は飽きます。しかもタチが悪いことに「好きなコトに飽きている」という状態を自分で認めたくない。すると、簡単に自分自身を騙してしまうんです。
競技→指導へと広がった興味
縄跳びとの出会いは「競技」でした。縄跳びの大会に出たい!という思いで練習を続け、八年間ほど競技に没頭しました。
でも競技を続けている間にも、他に興味が広がっていきます。なかでも大きかったのが「なわとび教室」でした。
自分が跳ぶのも好きだけど、子どもと一緒に跳んで上達を見守るのも楽しかった。ただ競技者として高みを目指すのであれば、自分でもあまり褒められた姿勢ではなかったと思います。
だって相対的に練習時間は減りますからね。子どもに教える時間を競技に当てていれば、もしかしたら「世界チャンピオン」になれたかもしれない。世界6位で甘んじたのも、練習量で負けたからかもしれないのです。
なぜ興味が広がったか
今思えば「世界チャンピオンにはなれない」と心の何処かで察していたのだと思います。自分はルール変更で取り残された選手。ゆえにどこかに「変化」を求める気持ちが芽生え、子どもへの指導に注力するようになっと考えられます。
これは外からは見えません。本人だけが感じる直感的なコトです。
でもこの「直感的」に感じる変化を求める心は、丁寧に耳を傾ける必要があると思うのです。
好きだから!と自分を騙す
縄跳び競技は大好きです。今でも大好きです。
ただ、、、再び選手としてエリアに立ち、世界の強豪と戦おうという気持ちにはなりません。今の興味の方向が違うからです。しかし気を付けないと「好きだから!」という思いが湧き上がってきて、自身を簡単に騙してしまいます。
好きなことはやっていて楽しいです。でも楽しいという思いは、どこかで「楽しいと思い込みたい」と考えているケースがある。とかく長年続けてきた「好きなこと」だと「好きなはず」という思い込みに縛られ、思考停止状態のまま続けてしまうことになります。
コレが好きという気持ちは大切です。一方で、好きだと思いたくて騙してしまう「心」には注意が必要なのです。
おわりに
「好きなコト=縄跳び」は変わっていません。あくまでアプローチの方向性が変化しているだけです。
競技の現役時代、世界の頂点を目指してトレーニングを積みました。競技引退後はシルクドソレイユのステージに立ち、舞台芸術での縄跳びの可能性に向き合いました。
ステージを降りることになった今、「なわとび」を起点にした次の興味はもう広がり始めています。
「好きなコト」に没頭しているあなた。たまに、好きコトにどう向き合っているかを見つめてみてください。そのアプローチ、飽きていませんか?
好きを変える必要はないです。でも飽きたアプローチを思考停止状態で続けていたら、いずれ「好きなコト本体」にも飽きてしまいます。