こんにちは!縄跳びパフォーマーの粕尾将一(@macchan8130)です。
あなたも「ヤル気がない!!」「ヤル気を見せろ!!」と叱られた経験ありませんか?自分は高校時代によく言われてました。縄跳びばかりやって、勉強にヤル気を見せていなかったんです。点数も残念な感じでしたし…。
しかし時を経て、自分も同じ事を言う立場になりました。教室の子どもや後輩を教えるときです。自分の目にはどうしても頑張っているように見えず、思わず「ヤル気を出せ」とゲキを飛ばしてしまう。
高校時代、自分には確かにヤル気がありませんでした。でも教室の教え子や後輩にヤル気がなかったかといえば、そうでもないと思うのです。そもそも「ヤル気のある・なし」は人から見えるものなのでしょうか?
ヤル気があるとき・ヤル気がないとき
まずヤル気が見えるのはどんな時でしょうか。
「元気である」「キビキビと行動する」
「返事をしっかりする」「諦めずに何度もを挑戦する」
ざっと思いつくのでこの辺でしょうか。いずれも共通するのが「前向きに物事に取り組む姿勢」という感じですかね。反対にヤル気が無いように見えるのは、
「元気がない」「すぐ行動しない」
「声をかけても返事しない」「すぐ諦める」
ひっくり返すとヤル気がないように見えますね。元気が開く、なにを言っても響かない人というイメージでしょうか。
ヤル気があるように見える、ないように見える
では上に挙げた特徴で「ヤル気がある人」「ヤル気がない人」で分類したとしましょう。でもこれ、随分危険な決めつけになる恐れがあると思いませんか?
たとえば「元気がある」という項目。元気なんて人によって尺度は違いますし、本人は元気100倍!!でも周囲にはそう見えないかもしれません。また内心は「だりぃ〜」と思ってても元気一杯に見える人もいます。
つまりヤル気がある・ないの尺度は、見ている人の尺度に大きく依存すると思うのです。
ヤル気の基準が高い人の恐怖
世の中には情熱で燃えたぎっているような人がいます。きっと自分もそのうちの一人でしょう。
この手の人は自己評価でのヤル気基準が高いんです。このぐらいじゃヤル気があるとは言えない!の水準が高い。本人だけで基準突破に努力しているだけなら良いのですが、影響は間違いなく周囲にも及びます。
人は脳のクセで「統一性」がない物事に不快感を覚えるといいます。つまり「自分の基準」と「人の基準」が大きく食い違う=統一性を保てないと、不快感を感じてしまうのです。
■参考文献:図解 脳に悪い7つの習慣
ひどいケースになれば周囲にヤル気の基準を押し付けることも。シルクドソレイユにはいった当初(今も?)、自分にもこの傾向がありました。
■参考記事:「好き」を仕事にしてわかったこと。シルク・ドゥ・ソレイユのステージから見えた風景 – リクナビNEXTジャーナル
「ヤル気がある!」は演出できる
ヤル気のある・なし、は他人から完全には分かりません。「行為」で判断してるに過ぎないのです。行為で判断しているということは、どちらにも行為を演出することができます。
「ヤル気がある!」と思われたいなら、そう見えるよう演出を考えてみましょう。反対もまたしかりです。