スポーツ・運動指導

個人的な成功体験にこそ「楽しさ」がある。他人が勝手に上手下手で決めつけちゃダメ。

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こんにちは!縄跳びパフォーマーの粕尾将一(@macchan8130)です。

自分は中高生のとき、球技と呼ばれる運動が苦手でした。サッカーやバスケはどこに走って良いか分かりません。パスを貰っても頭が真っ白になり、パニックになってるうちにボールが奪われていきます。

するとチームの中でも気まずい立場になり、前面に出ていかなくなる。できるだけボールに触らずに、ただ時間が端役過ぎてくれることを祈っていました。

運動が嫌いなわけじゃありません。むしろ今でも運動を続けているのだから、一握りの運動バカの部類に入ることでしょう。しかし中学・高校時代は体育が嫌いだった。ここには「上手な人ばかりがスポーツを好きになっていく」問題が隠されていると思うのです。

残酷な選別が始まる

小学校のときはどんなスポーツも好きでした。サッカーでもバスケでも、先頭になってボールを持って走っていた時代です。

しかし学年が上がるに従って「圧倒的に上手な子」というのが出てきます。クラブチームに入っていたり、天性の運動能力を持っている人たちがそれです。

徐々に周りに上手な人が増える中、自分は少しずつ取り残されていきました。そして気付いたときにはボールを触る機会も減少し、積極的にチームに参加しない立ち位置になっていました。

子どもの社会は残酷です。上手な子とそれ以外の選別が容赦なく行われ、選ばれなかった子は舞台に上がる機会すら失います。

「大好き」と「嫌い」の二極化が進む

ここまで来ると、上手な子はより結束していきます。たとえばサッカーだと、実際にボールを回しているのは両チーム合わせて4-5人。残りの17〜8人はボール移動に合わせてなんとなく走るだけ、もしくはパスが来ない安全地帯へと退避します。

この状態で、スポーツが楽しめているのは果たして何人でしょうか。中枢でボールを仕切る4-5人は楽しいでしょう。でも残りの大多数の人間はやることもなく、ただ時間が過ぎるのを待つばかり。

ここで問題なのは「別に参加したくないワケじゃない」という人も少なからず居ることです。

ボールを蹴るのは楽しいです。チームの一員として貢献できれば嬉しいです。でも現実にボールを持ってしまうと思うように行きません。どこに蹴れば良いかも分からず、走れと言われてもどっちに行けばいいか分からない。結局パスを貰ったこと、チームの一員として参加したことが周りの皆に迷惑をかけてしまう。

失敗すれば直球でヤジを飛ばされます。たとえなにも言われなくても、空気で迷惑を掛けた…と押し潰されそうになります。

こんな気持ちになるなら参加したくない。その結果として中枢にいる大好きな数名と、それ以外の「嫌い」な多数に二極化されてしまうのです。

スポーツが好き=上手、だけではない

二極化が進めば、元はスポーツが好きだった人も少しずつ嫌いになっていきます。運動そのものが嫌いなワケじゃない、その雰囲気と失敗体験が嫌なんです。

先日読んだ自閉症の僕の七転び八起きに興味深い一節がありました。

僕はスポーツもできません。しかしたとえば、野球は無理でも、キャッチボールなら、へたでも楽しいです。バドミントンも、とてもうまいとは言えませんが、一回でも打てると嬉しいです。それが、好きな運動ということではないでしょうか。

出典:自閉症の僕の七転び八起き

著者HP:東田直樹オフィシャルサイト 「自閉症の僕が跳びはねる理由」

このフレーズは、スポーツを教える人は肝に銘じておくべきではと感じます。

自分は運動の楽しさは「個人的な成功体験」にあると考えています。個人が心から「やったー!!」と思える瞬間こそが、運動を好きになる礎だと思うのです。

それはチームに貢献したと思えたときかもしれません。前とびができた瞬間かもしれません。反対に、パスを貰って心がペチャンコになっているかもしれません。わざと上手な子がパスを出し、困らせている場合だってあるんです。

試合ばかりをさせて盛り上るように見えても、実際どれだけの子どもが「個人的な成功体験」を得ているでしょうか。もしかしたら、「リフティング」や「PK」にやり甲斐を感じてる子どもは苦しんでいるかもしれません。

これこそは成功体験である!という決めつけには、気を付けたいものです。

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