シルクドソレイユが教えてくれた大切なコト

純粋な面白さを提供できるか?人は「価値あるモノ」だけを求めるワケじゃない

Aidan
Photo by John Morgan

誰しも「何かを作る」という仕事はありますよね。

自分の場合は縄跳びの演技を作ること。色んな技を組み合わせて演技を作りますが、実は自分これがすごい苦手なんです。苦手な理由は「いつ作っても陳腐に見える」から。全力で作っているのに、動画を確認すると、どこかありきたり。

先日「プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術 」を読んで、長年のこの疑問が少し晴れたような気がしました。

全部乗せはツマラナイという矛盾

出来る技が増えると、その分色んなことを詰め込みたくなります。誰しも出来る技を披露したいですからね。その上で達成したことを認めてもらいたい。技の詰め込みは上級者になる程に加速する傾向にあります。

加えて縄跳び演技のルールは「制限時間内にどれだけ難しい技を詰め込めるか」です。つまりは技を詰め込むだけ詰め込む。ただでさえ詰め込みがちな演技が、ルールによって一層ギッシリのコッテコテ演技に進化していきます。

コテコテに盛り込むのはいちばん簡単。しかし、盛り込めば盛り込むほど焦点がぼけて品もなくなり、魅力は失われていくものです。

出典:プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術

悲しいことに、技の数が多くなればなるほど「どこを見れば良いのか?」がボヤケます。

「10個の大技」より「9個の小技と1個の大技」の方が良い。なぜなら「どこがスゴイか」「どこがスゴクナイか」が観ている方にも伝わるからです。全部が大技だとメリハリがなくどこがスゴイのか分からない。感情を揺さぶるには「落差」が必要なのです。

俺の演技を見ろ!!は通じない

同じく陥りがちな「難しい技は盛り上がる」という誤解。残念ながら技の難易度と観客の見たい演技は乖離しやすいもの。難しい技はそれだけ見る人を選び、一般の観客にはその難しさを伝わりません。

いくら難しい技をやっても見る人に伝わらなければ、演じる側の想いの一方通行で終わってしまいます。

クリエイティブワークである以上、アーティスティックな感性は必要不可欠だけれども、決してそちらに寄りすぎてはいけない。いわばビジネスと表現の境界線上で、ギリギリのバランスを保つ必要があるのです

出典:プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術

ここで言うアーティスティックとは、人の評価を二の次に置き、自己表現に力を注ぐことを指します。難しい技ができる人ほど、この「アーティスティック」な方向に走りやすい傾向にあります。

こんなに難しい技ができる ⇒ この技には価値がある ⇒ この技ができること、そのものが自己表現だ

ざっくりとこんな流れでしょうか。こうして演技と観客の溝は一層深まっていくことになります。

専門家の声だけじゃ、決して溝は埋まらない

狂言の話なんですけど、あれって、昔は今みたいな文化ではなくて、一般の人たちがお弁当を持って観に来て、あはははって笑って楽しむただの娯楽だったんです。それが、「私たちは狂言をたくさん観てきているからなんでも理解してて、ここはこういうポイントなんです、よく知ってるでしょ?」っていう感じの観客ばっかりになってきちゃったら、もう一般の人は離れていっちゃうんですよ。

出典:マンガで食えない人の壁 -プロがプロたる所以編-

狂言は一般大衆の娯楽だったにも関わらず、今は専門家が楽しむものになってしまいました。それは専門家の声が大きく、そこに向けて進歩をしてきことで、一般大衆は置き去りにされ楽しさを見いだせなくなってしまったからです。

専門的すぎたり難易度の高すぎる技は、往々にして観客を置いてけぼりにします。加えて試合会場は選手や関係者ばかり集まる玄人集団。ここは明らかに一般社会とはズレた場所であり、試合会場で盛り上がり評価されることがよそでも評価されるとは限りません。

テクニックだとかオシャレだとかいうのを見せても、一般的なお客さんは、面白いって思わないですよ。純粋な面白さがないと、「マンガってもう面白くないな」って見限られちゃう。

出典:マンガで食えない人の壁 -プロがプロたる所以編-

演技の純粋な面白さとはなんなのか・・・ありきたりですが、専門だからこそ耳が痛い。

「自分の演技がツマラナイ!!」と感じてしまったのは、こうし専門家としての自分の声を大きくし過ぎたのが原因だったようです。そりゃ夢中で10年もやっていれば習慣や癖もこびり付きますよ。

少しずつ、自分という専門家の声ではなく、ステージから受け取る観客の声に耳を傾けて行きたいものです。