自分はこれまで「美しい技術」を目指してきた。
淀みのない縄の回旋、そして最大限まで効率化された動き。
トップレベルの選手が繰り出す洗練された動きには、ある種の美しさが伴う。
同じように、縄跳びでも動きの美しさを求め目指してきた。
しかし・・・洗練された動きには落とし穴があることに気付かされた。
自動化された動きはどう見えるのか
動きには熟練の段階がある。縄跳びも同じだ。
たとえば2重とび。
いつでも出来るのか、どの長さでも、どんな縄でも出来るかと言った具合に熟練度が変化する。
(※)ちなみに最上級者は70cmほどのスポーツタオルでも2重とびができる。
熟練度が上がれば負担が軽減される。この辺のことは俺の考える技術論 「タテ」と「ヨコ」の技術の記事でまとめた。ヨコの技術が伸びれば意識負荷が軽減されてプラズαで何かができるよ!って話だ。
個人的にこのプラスαにキャラクターだったりエナジーを込めてステージに立つようにしている。縄跳び関係者が見ると「結構簡単な技しかやらないんだ」という印象かもしれない。その通りで実際にステージでやっている技は世界トップレベルの技ではない。
だからといって技術の研鑽をしていない、という事ではない。
どうすれば意識不可を減らせるか、より効率化・最適化された動きの模索は続けている。
この点に関してだけは世界で一番気を使っている自信がある。
★★
しかし、だ。
自動化され、効率化され、最適化された動きが必ずしもショーに適しているとは限らない。
先日、年間の業務査定を行うEvaluationというミーティングがあった。
毎年この時期に年間の仕事具合を評価されるのだけど、その中で毎年言われるのことがある。
Shoichiはもっと出来るはずだ。
毎年言われてるので頑張ってきたが、今年も案の定同じことを。
さすがに5年目になるこの質問の意図を初めて確認してみた。
ディレクター曰く、
「Shoichiが跳んでいる姿は美しいし技術が高いのも認める。」
「でも簡単に見え過ぎてしまう」
「もっと難しい事がShoichiなら出来ると思うから、この評価をしている」
とのこと。
正直この発想は今までなかった。
技術を磨くことが反対に技を簡単そうに見せるるというマイナスに働く場合があるのだ。
5年目の気付き
このディレクターの評価に対し、これまで馬鹿正直に難しい技の練習をしなきゃ!と考えていた。
しかしそういうことじゃない。
ディレクターが求めているのは単に上手なだけの演技の脱却だったのだ。
言われてみると思い当たるフシは何個もある。
たとえば3重とびと4重とびをショーでやっている場面。できるだけ上半身を崩さずに直立姿勢を保ち、縄跳びの軌道を意識してかつジャンプ中の浮遊感を・・・なんて考えながらいつも跳んでいた。確かにこのやり方は難しいし、自分の中で美しく見えると価値を置いていた跳び方だった。しかしこの価値観がステージで求められるかは別問題だ。
一度ディレクターの言っていた視点から自分の演技を見てみる。
そっか・・・言うとおりでスゲー簡単そうにやってるし引っかかる気がしない。
百歩譲ってミスがないのは良いかもしれない。
だが簡単そうに見える。誰にでもできるんじゃないかとすら思える。
実際に難しかどうかが問題なんじゃない。ステージで跳んでいる姿が客席からどう見えるか?が問題なのだ。
極端に言えばメチャメチャ上手な4重とびよりも、いい感じに見える前とびの方がステージに向いている。
基準はアーティストの満足ではなく、あくまで客席から見たらどう見えるか?が大切なのだ。
一体誰が簡単なことばかりをやるステージを見たいだろうか?
これは難しい技です!!て叫びながら跳ぶワケにも行かないし。
★★
先日、シルクドソレイユの中で5年間追い続けた『夢』を諦めることにしたという記事の中に縄跳びアーティストとしての価値を上げるという目標を書いた。
書いた時は漠然としていたけど今回のディレクターの言葉が1つのヒントになりそうだ。
身体が柔らかいだけのダンサー、
音を外さないだけの歌手、
上手に縄を回すだけの縄跳びアーティスト。
これがまさに「今」の粕尾将一である。
上手なだけじゃない縄跳び。
ヨコの技術ので得た余裕の部分に何を加えられるか。
目指す方向性が少しだけ見えた気がする。