3週間前、新しいアーティストがラヌーバに来た。
しかし…
彼はついに本番ステージで演技をすることなく、ラヌーバを去ることになった。
現実ってやつは本当に残酷だ。
最近のラヌーバは怪我人が多い。
どうしてもアクロバットには怪我が付き物、
怪我をするとすぐに代役のアーティストが派遣されてくる。
バックアップと呼ばれる人々だ。
このバックアップで3週間ほど前にラヌーバに来た「S君」。
彼はパワートラックのアーティスト。バク転とか宙返りを専門にやる。
いくらスペシャリストとはいえ、
しばらくの間はトレーニングが必要になる。
それは、照明や器具の感触などで「カン」がずれるかららしい。
今回の派遣ではけが人が多かったこともあり、S君だけでなくJ君も一緒に派遣されてきた。
彼らは揃ってトレーニングを始めた。
「J君」のトレーニングは至って順調で、
飲み込みが早いのか若いからなのか、
わずか2週間足らずで本番のショーに出演することになった。
しかし「S君」の方はまだ本番のショーへの準備が整わない。なぜなら、
専門のアクロバットが殆どできなかったのだ。
技術が無かったわけじゃない、はず。
もちろんS君だってアクロバットは出来る。
バックアップの候補を選ぶ段階で、最低限の技術査定はしていて、
ラヌーバの場合は「3回宙返り」が出来ることが条件だ。
S君だってこの条件をクリアしていなければ声は掛からない。
だが、ふたを開けてみると、
普通のバク転や宙返りすら、ままならない状況だった。
素人が見ていても危なっかしいというか、とても安心して演技をできる状況ではない。
練習を重ねるうちに上達するものの、ここはサーカス学校ではない。
S君は3週間のトレーニングを経て、ステージに立つことはかなわなかった。
「器用である」ことの落とし穴
フォローをしておくと、S君は器用な人だった。
トレーニングの合間にジャグリングで遊ぶのを見ていたら、
いとも簡単に7つのボールを投げ始めた。
ジャグリング界で7つのボールを投げられる人は、
果たしてどれだけいるだろう?
ましてや素人で出来る人は、そうは居ないはずだ。
7ボールカスケードに挑戦
http://juggling-donuts.org/tutorial/index.php?6%A5%DC%A1%BC%A5%EB%B0%CA%BE%E5%A4%CE%A5%B8%A5%E3%A5%B0%A5%EA%A5%F3%A5%B0#t80f8c6e
おそらくS君は、この器用さを持ってアクロバット習得も果たしたのだと思う。
経験者とはいえ、3回宙返りなんて簡単に出来るもんじゃない。
だがこの器用さこそが、彼を苦しめたのだと思う
器用な人は羨ましい。
何しろ技の理解・習得が早いので、気付くと「できて」いる。
しかしこれまで自分が見てきた「器用だな」と思う人に共通していたのが、
時間をかけないで習得することを優先する癖だ。
彼らは技の要点やコツを見抜く力に長けている。
ゆえにどうすれば最短の時間と労力で習得できるかを、人より早く理解する。
たしかに習得が早いことも一つの利点であろう。
だが、基礎を反復し土台を固めるのを忘れてはいけない。
S君を見ていると、
本来この場所に来る前に身に付けておくべき、基礎・土台の軟弱さを感じずにはいられなかった。
たとえば宙返り一つにしても、技術で指摘される課題は殆どが基本中の基本。
つまり、
S君の基礎は、
環境変化によって大きく揺らいでしまったのだ。
基礎は余裕を生む
技の習得は重要だけど、習得しただけじゃ終わりにならない。
そこから更に基礎を固め、変化させ続ける必要がある。
「基礎は無意識に落としこむほど反復してこそ、本当の土台となる。」
「基礎が大事」という本当の意味を理解しているか? – 旧・teruyastarはかく語りき
「基礎は常に更新、あるいは再構築されるものである。」
『脚が200度まで開く人は、あえて180度までしか使わないで踊る。この、あと20度分が踊りに余裕を生み、表現力と美しさを創り出すのだ。』とあるバレエ教室のページで見つけた言葉。一瞬で自分が目指したい指針を言い表してくれた。
— 粕尾将一 (@macchan8130) 2012, 2月 8
手前みそだけど、過去にこんなこともツイートしてたなぁ。
S君にはこの基礎に裏打ちされた余裕が無かったのだろう。
準備され、整った環境であればS君も「実力」を発揮できた。
だが、
いつでも、どこでも、「できる」とは
天と地ほどの差がある。
ショーは1600人を前に緊張の中で演技をする。
照明や音楽だってある。ライブだから不測の事態だって起こり得る。
余裕を持ってアクロバットをできなければ、
それこそ命にも係わる。
まとめ
S君は人柄も良く笑顔の絶えない好青年だった。
今回の件では残念な結果になってしまったが、彼はまだ20歳そこそこと若い。
これからじっくりと基礎を身につけ、
いつの日かラヌーバのステージで一緒に演技が出来たら嬉しい。