注目を浴びることができるかどうか、
それも実力だ。
最近はネットとかSNSのおかげで、一夜にして注目を集める人がいる。
YouTubeとかで何万人もの目を引き、あっという間にスターダム。
「パフォーマー」は、人に知ってもらって初めて仕事ができる。
いわゆる「売れてるか」「売れてないか」だ。
では、パフォーマーは仕事を得る手段として、
「奇を衒う」必要はあるのだろうか?
奇を衒(てら)う
わざと普通と違っていることをして人の注意を引こうとする。「―・った表現」
◆「奇を狙(ねら)う」とするのは誤り。
奇を衒うの意味 – goo国語辞書
戦略として奇を衒う?
ちょっと前の記事でも書いたけど、ダンス界では映像やらテクノロジーと融合したジャンルが流行っているらしい。
アイディアに振り回される身体。観客は「機械」に何度も感動はしない。 – なわとび1本で何でもできるのだ
この記事でも触れたとおり、
目新しいアイディアは、一瞬にして世間の注目を浴びて話題となる。
じゃ実際に彼らのダンスが上手かどうかっていうのは別問題。
彼らのやってる演出アイディアが斬新だから注目されているわけで、
悲しいかな、演出なし状態の彼らの演技を見つけることは難しい。
つまり「踊ってるのは誰でもいい」のだ。
おそらく彼らと同じレベルのダンスチームは沢山いると思う。
しかし彼らはこうして奇抜なアイディアにより世間の注目を浴び、
世界的な著名チームになることができた。
こう考えると、
奇を衒うのも一概に悪いとは言えないのかもしれない
心情的には、あまり好まれない
一般的に「奇を衒う」といえば悪い意味でつかわれる。
無個性な人間ほど奇をてらうと僕は思っている
個性というものは滲み出るものであり、決して身に纏うものではない個性とは徹底的に自分と対話する事から生まれる
無個性とはすなわち内省が少ない事を意味する
個性と奇をてらうは違う | sperevo 〜member’s blog〜
これは「守破離」にも通じる部分がある。
守破離
まずは師匠に言われたこと、型を「守る」ところから修行が始まる。その後、その型を自分と照らし合わせて研究することにより、自分に合った、より良いと思われる型をつくることにより既存の型を「破る」。最終的には師匠の型、そして自分自身が造り出した型の上に立脚した個人は、自分自身と技についてよく理解しているため、型から自由になり、型から「離れ」て自在になることができる。
守破離の考え方の例としては「串打ち三年、割き五年、焼き一生」とかかな。
これは鰻屋さんが修行で使う格言で、
皮と身の間を通す繊細な串加減を学ぶのには3年、
生きてる鰻をまな板にのせて、素早く割くのには5年、
焼き加減は、天候・季節、客の好みや流行によって変化していくから一生学び続ける、
みたいな価値観からきてるらしい。(…どこでみたか、出典を忘れちゃった汗)
じゃ、地道に修行、だけでいいの??
奇を衒うことなく、じっくりと修行を重ねて技術や個性を磨いていく。
なんとも日本人が好きそうな「努力論」だ。
かくいう自分もこの考え方は大好き。
だけど、いまは即座に情報が拡散していくご時世。
1つの動画、記事がきっかけて一夜にして有名人になったりするのも珍しくない。
だからこそ今は、
「奇を衒う」と「地道」の同時進行が良いと思う。
どれだけ実力があろうとも、世間から見つけてもらわなければ実力を発揮する場所すらない。
俺は実力だけなら負けない!なんて講釈してても、仕事はこない。
とある老舗風鈴屋さんは、弟子に風鈴の作り方だけじゃなくて「売り方」も教えたという。
良いモノを作っても売る手立てを知らなきゃダメってこと。
この考え方はパフォーマーにも通じる。
たとえ「奇を衒う」と言われようとも、
世間の注目を集める=作品を売る手立て
なのだ。これは立派な戦略である。
でも気を付けなきゃいけないのは、「地道」を忘れちゃいかんってこと。
どの道にも「絶対に押さえとけ!!」みたいな基礎やら定石ってある。
どうしても注目を集めると、忙しくなったり気持ちに余裕がなくなったりで疎かになる。
あくまで「奇を衒うこと」は仕事を得る手立てに過ぎない。
せっかく得たのにチャンスでいい仕事ができなければ、
次の仕事は来ない。
だけど、平凡というのが、一番むずかしいんですよね。
奇をてらうなんていうのは、外から見るとはなやかだし、
その場限りのおもしろさがありますけれども、
ごく当たり前のことを当たり前にしていくことが大事なんです。
それが長くトップを続ける根本だと思うんですよ。将棋棋士 大山康晴名人
宝石メモ ブログ 奇を衒うことについて。
平凡でも「続けること」が一番難しいんだよね。
毎日のように地味な練習を繰り返したり、
疲れるだけの基礎連をしたり。
そりゃ注目されて「ワーキャー」言われた方が刺激的だし、楽しいよ。
でも「地道」の積み重ねでしか「実力」は養われない。
申し訳ないけど一発屋芸人みたいなもん。
前にテレビで有吉弘行について島田紳助が
あいつ(有吉)は、猿岩石で売たけど実はトークもネタもできなかった。
空っぽのまま売れてしまった。
すると、
ひな壇に座っても気の利いたことも言えないし、
MCに振られても大した返しもできない。
消えるのは当たり前。
でも今の売れ方はちゃんと「実力」で売れてる。
だからもう大丈夫、あいつが消えることは無い。
こんなこと言ってた。
(※注)発言内容は正確じゃないっす…ザックリこんなこと言ってた
一発屋として売れるのも実力のうちだけど、
継続して仕事をするには「積み重ねの実力」が必要ってことなんだよね。
まとめ
パフォーマーが「奇を衒う」のは必要だと思う。
なぜなら注目を集めたり話題を呼ぶことは、すなわち仕事を呼ぶからだ。
でも奇を衒うことしか考えていないと、必要なときに実力不足になる。
「奇を衒う」って家で言えば外装みたいなもの。
「地道の積み重ね」は屋台骨ってとこかな。
骨組みがしっかりしてれば売れる、
良いモノなら買ってくれるってのは、ちょっと時代遅れ。
話題を呼ぶような「外装=奇を衒う」も時には必要。
もちろん奇を衒えばいつでも注目を浴びれるかと言えば、そう甘くない。
注目を集められた時は絶好のチャンス。
そんなチャンスを生かすために、次の仕事に繋げるためにも、
「平凡」な「地道の積み重ね」は常に続けてなきゃいけない。