パフォーマンスの哲学

あなたはどちらを目指しますか?「アーティスト」と「職人」の違い

こんにちはー。 縄跳びパフォーマーの粕尾将一(@macchan8130)です。

以前、身体表現と「パフォーマンス」との溝について記事を書きました。何を表現するか?ではなく「自分は表現者だ!」状態に溺れているのはどうなのかなと。

それ、表現なんですか?パフォーマーと「身体表現」の溝

では一方で「職人」ってどうなんでしょうか。アーティストではなく職人。自分は両者の違いは「名前を売るか?」「商品を売るか?」の違いだと考えています。

パフォーマーも、この意味では「職人」を目指すのも良いと思うのです。

アーティストがいう「職人になりたいの?」の意味

アートの世界では「職人」というのは皮肉を込めた意味合いで使われるといいます。

修練を真面目に積んだことによって職人並みの腕になり、自分のテクニックにうっとりするする人が出てくるのである。
そういう人がやたら技巧に走って仕上がりがきれいなだけで中身のあまりない作品を作って満足していると、先生や先輩に一言嫌味を言われる。
「おまえ、職人になりたいのか?」

引用:アーティスト症候群—アートと職人、クリエイターと芸能人 (河出文庫)

アーティストにとって、職人並みの技術を持っていることはプラスではあるが、作品がそれに依存していると看做されることは、明らかにマイナスである。「器用なだけの作家は、しょせん職人だ」

引用:アーティスト症候群—アートと職人、クリエイターと芸能人 (河出文庫)

あくまで職人的な技術はアートを表現するため。技術そのものを見せるのがアートの本質ではないと言います。

卓越した技術を見せるのもパフォーマンスでは?

自分はこれがパフォーマンスには当てはまらないと思うんですよね。

なぜなら、卓越した技術を見せるのもパフォーマンスとして成立てるんですよ。一糸乱れぬシンクロとか、目にも留まらぬ縄捌きとか。これらだって十分にパフォーマンスとして価値があると思うのです。

もとより競技の世界では職人的な向上を求められます。より早く、より強く、より正確に。縄跳び競技で求められる技術とか、たった1秒足らずの滞空時間でどれだけ複雑なロープの動きを実現できるか?です。

これ、もはや職人芸の領域ですよ。

裏を返せば技術を持っていても「中身」があるわけじゃない。しかし中身なんて考えるのは競技世界では無意味。点数を取る上で、必要ありません。

こうした採点競技から発展したパフォーマンスに無理矢理「中身」や「表現」を求めなくて良いと思うのです。卓越した技術、磨き抜かれた動きそのものに美しさや価値を感じてもらえば良いのではないでしょうか。

アーティストか、職人かを選べばいい

スポーツ競技出身のパフォーマーは「競技規則」にそった演技を創作しやすいです。

たとえば縄跳びの場合同じ技を繰り返さないのが競技ルールの鉄則。競技を長くやった人ほど身体の芯に染み付いているものです。

こうした「競技に則った演技」にもパフォーマンスとしての立派な価値があります。極めた動きは、それ単体で美しさを放ちます。

これを「競技志向のツマラナイ演技」と切り捨てるのは、ちょっと狭い考え方ではないでしょうか。反対に表現に向かう演技を「簡単な技しかやってない」とルール基準で捉えてしまうのも同じです。

あなた自身が求めたい方向性・志向性を見ればいい。排他的な考えをするから話がややこしくなるだけです。

誰に評価をされたいかが重要

http://www.flickr.com/photos/9468783@N06/697103758
photo by Juca Pitanga

パフォーマンスの善し悪しは「評価」で決まります。では、あなたはパフォーマンスを誰に評価されたいでしょうか。

一般の観客?
コンテストの審査員?
イベントクライアント?

あなたはパフォーマンスを作る指標は誰に評価されたいかです。皆から評価されるパフォーマンスは、誰からも高い評価をされないパフォーマンスです。

その上で、あなたは「アーティスト」「職人」のどちらを目指すかを考えてみてください。